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Artist

FRANCO, VICKY, EDO & L'OK JAZZ

Title

LA BELLE EPOQUE 1966/67


belle epoque
Japanese Title 国内未発売
Date 1966 /1967
Label AFRICAN/SONODISC CD 36553(FR)
CD Release 1996
Rating ★★★★☆
Availability


Review

 66年は、フランコとO.K.ジャズが、名実ともにコンゴのナンバー1バンドとしての地位を揺るぎないものにした年であるとともに、6人ものメンバーが一斉に離脱するという危機に見舞われた年でもあった。
 首都レオポルドヴィルの人口は、独立前の40万人から90万人以上にまで一気に膨れ上がった。これにともない、66年の時点でレオポルドヴィルに30組のプロ・バンドがひしめくまでになった。まさしくコンゴ・ポピュラー音楽は"LA BELLE EPOQUE" (黄金時代)を迎えた。

 63年、O.K.ジャズと人気を二分していたカバセル(グランカレ)率いるアフリカン・ジャズから、ドクトゥール・ニコロシュロー、ロジェ、それにニコの兄ドゥショーら主要なメンバーが脱退してアフリカン・フィエスタを結成。ニコとロシュローを双頭リーダーとするアフリカン・フィエスタは大成功を収め、65年にはライヴァルのO.K.ジャズからクァミーを引き抜くなど、2つの楽団は互いにしのぎを削った。

 66年、セネガルのダカールでワールド・フェスティバル・オブ・ブラック・アーツが開催されることになり、コンゴからはアフリカン・フィエスタが出演することで内定していた。ところが、直前、ロジェがビジネスの名目で訪問したアメリカでおこなった使い込みと勝手な行動がニコの逆鱗にふれた。これをきっかけに、バンドはニコ、ドゥショー、クァミーらのグループと、ロシュロー、ロジェらのグループとに分裂してしまう。前者はアフリカン・フィエスタ・スキサ、後者はアフリカン・フィエスタ66(のちにアフリカン・フィエスタ・ナショナル、アフリザ・アンテルナショナルと改名)と名のった。

 この分裂さわぎで、かれらのワールド・フェスティバルへの出演は取り止めになり、代わってお鉢がまわってきたのがO.K.ジャズであった。なにせ、コンゴ代表として政府が派遣するのである。フランコにとって、これほどの名誉はなかったにちがいない。

 ダカール公演時のO.K.ジャズは20名近いメンバーをかかえる大編成であった。クァミーが抜けたとはいえ、フロント・シンガーにはヴィッキー、ムジョス、ボーイバンダ、ホーン・セクションはヴェルキス、ムセキワ、デル・ペドロ、リズム・ギターとベースはシマロ、ブラッツォ、ピッコロ、パーカッションはデスーアン、そして、リード・ギターはフランコというコンゴ最強の布陣を誇っていた。

 O.K.ジャズのレーベルBOMA BANGOとEPANZA MAKITAから66年と67年にリリースされたシングルからとられた編集盤は2枚ある。1枚はFRANCO, VICKY ET L'OK JAZZ "1966/1967"(AFRICAN/SONODISC CD 36554)、もう1枚が本盤である。

 まず、注目したいのは、アルバム・タイトルのクレジットに、フランコ、ヴィッキーとならんで、エド・ンガンガの名まえがあること。エドは、いうまでもなく初期O.K.ジャズでヴィッキーとともに、あの独特のコーラス・スタイルを完成させた功労者。60年に対岸都市ブラザヴィルに拠点を置くオルケストル・バントゥ参加のため、いったんO.K.ジャズを去ったが、62年ごろにはバンドに復帰。しかし、政府が出した外国人退去令によって64年にはバンドをやめたことになっている。ところが、またぞろここでひょっこり顔を出している。かと思うと、いつのまにかいなくなっている。よくわからん。
 ちなみに、EWENSの著書"CONGO COLOSSUS"巻末の資料では、エドは60年にO.K.ジャズを去ってそれっきりということになっている。フランコ自伝の著者にしてこうなのだから、シロウトのわたしが多少まちがっていたところでたいした問題ではない(とどさくさまぎれにいいわけする)。

 ダカールでのフェスティバル開催は66年4月。そのとき、お隣のコンゴ共和国からはオルケストル・バントゥが参加していた。バントゥは、O.K.ジャズ創設時のリーダーであったサックス奏者エッスーを中心に、おなじくサックス奏者のニーノ・パラペNino Palapet 、パーカッションのパンディといったO.K.ジャズとつながりの深いミュージシャンたちで結成された名門楽団。当時、ヴォーカルには、パブリートYves Andre 'Pablito' M'Bemba とコスモスCome 'Kosmos' Moutouari の若手シンガーとともに、エドとセレスティンが名をつらねていた。O.K.ジャズとバントゥというコンゴ川を隔てた兄弟バンドが、遠くダカールの地で顔を合わせるなんて、両者ともに感慨もひとしおだったことだろう。本盤へのエドの参加は、このことが縁となって実現したのではないか。

 ちなみに、オルケストル・バントゥは、これ以降、オルケストル・バントゥ・ドゥ・ラ・キャピターレと名のるようになった。バントゥは、フェスティバル参加後もセネガルに残って、資金稼ぎのためコンサートをおこなった。そのあとコート・ジヴォアールのアビジャンで1年間の契約を結んだ矢先、本国政府から帰国命令が下った。やむなく契約を解除しメンバーは本国へ帰ったが、ひとりエッスーはそのままパリへと飛び立って行った。

 話がそれてしまった。話題をO.K.ジャズに戻すなら、フランコは、フェスティバルのあと、ひとりそのままベルギーに立ち寄って、楽器などの機材の調達をおこなっている。その年の7月にレオポルドヴィルからキンシャサと改名されたホームタウンで、フランコを待ち受けていたのはあまりに大きな衝撃であった。なんと、ブラッツォ、ムジョス、ムセキワ、デスーアン、ピッコロ、ジャリの6人ものメンバーがいっせいに楽団をやめてしまったのである。裏で糸を引いていたのは、いまやフランコの宿敵となっていたクァミーであった。
 クァミーは、アフリカン・フィエスタ・スキサを辞めたあと、みずからリーダーになってオルケストル・レヴォルシオンという新バンドの結成を画策していた。6人はそっくりレヴォルシオンに引き抜かれてしまったのだ。

 空き巣に子飼いのメンバーをさらわれたフランコの怒りは並大抵ではなかった。すかさず、かれは'COURSE DE POUVOIR' という曲を発表して、クァミーを思いっきり罵倒した。

「おまえはいたるところでおれの悪口を言っている。おれがおまえにしてやったすべてを忘れて。それは嫉妬だ。おまえは貧しい孤児のように漂いつづける。おまえがおれのことを語るのは、ただ権力を握りたいがためだ。おれは確実にステップ・アップしていくが、おまえはトゲのある灌木に足をとられるだろう」。

 とまあ、こんな具合にフランコはクァミーにたいし、思いつくかぎりの罵詈雑言を浴びせている。本盤収録のこの曲は、とにかく陽気でにぎやかな演奏。囃したてるような擬似ライブ風の歓声がはいっているのはあきらかにクァミーへの面当てだろう。ここではとくにヴェルキスのサックス・ソロが光る。ヴェルキスはリラックスしまくったはてに、サックスで音の肉団子を作って四方八方に投げつけるという暴挙に出る。垂れ流しのあるべき姿がここにある。

 当然、この曲にはムジョスほか脱退組は参加していないわけで、ということは、本盤冒頭のムジョス作の'MINDONDO YA KOSWANA NA MOBALI' はそれ以前の録音ということになる。この曲はヴォーカル・ハーモニーの美しさが最大限にまで引き出されたルンバ・コンゴレーズの傑作。エレガントなサビのコーラスにつづいて延々と反復されるヴェルキスのバウンスするサックスのリフが印象的だ。

 つづく'COLONEL BANGALA' から、リチャード・エグェスばりのリリカルなフルートが愛らしい、ボーイバンダによるダンソーン風ナンバー'OK JAZZ ELOMBE, NGANGA TE' を除く6曲はすべてフランコの作品。変化球はなく、'MINDONDO YA KOSWANA NA MOBALI' と同系統のミディアム・テンポのルンバ・コンゴレーズで直球勝負だ。いずれの演奏も密度は濃いが、気張ったところはなく全体にサラリとした印象を受ける。ひとによってはワン・パターンというかもしれない。
 
 そのなかの1曲'TANGO NGAI NAZALAKI SOMELE' は、家族を養うため、以前に働いた給料分を一刻も早く払ってくれるようボスに求める失業中の男をテーマにした歌で、コンサートでもよく演奏されていたという。ところが、その後、給料の払えないボスにフランコ自身がなってしまったときから、この曲はレパートリーから永久に消えてしまった。まさに「ミイラ取りがミイラになる」典型。

 エドがフォークロアをアレンジした9曲目の'BA OK BATELE' 以降は、アルバム前半とサウンド・カラーにちがいが感じられる。'BA OK BATELE' は三味線のようにテケテケしたギターとつっこみ気味のビートがどこかカメルーンのレ・テット・ブリューレのようだし、エド作の'WAPI OK JAZZ?' はアフロ・キューバン調。おなじくエド作の'YANGO NIONGO TO ZUWA?' にしても、ヴィッキーがソロで歌うラテン調バラード'BOKILO BWAKELA MWASI NSOI' にしても、なんだかサウンドが昔に返ったようで悪くはないがあまり感心できない。ヴェルキスのサックスもこころなしかおとなしいのがちょっと不満。
 
 そんななかで、わたしが俄然注目したいのは、フランコが書いたボレーロ'MOSIKA OKEYI ZONGA NOKI' という曲。リード・ヴォーカルをとっているのはめずらしいことになんと!女性。もしかしたら、わずか4か月でバンドを去ったという幻のメンバー、“ミス・ボラ”ことアンリエット・ボロージマ Henriette Borauzima そのひとかもしれない。ちなみにミス・ボラは、ロシュローのアフリカン・フィエスタ66でも歌っている。
 それはそうと、メロディといい、泣きのギターといい、哀愁のサックスといい、コブシを効かせた歌いまわしといい、これはラテン系ボレーロというより昭和30年代のラテン歌謡そのもの。その歌い口はアフリカ人にしてはずいぶんとクールで、たとえていえば西田佐知子系。この演奏に銀座並木通りを思い出さないひとは、昭和を語る資格はない!

 述べてきたように、この編集盤は前半部と後半部のバランスがよくないようには感じられるけれども、総じて充実した演奏内容といえる。


(8.30.03)



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by Tatsushi Tsukahara